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生きるための心理的抑圧
2009年01月17日 土曜日
今年の古典読破計画の第一弾として読んだ、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧 新版』(池田香代子訳)。
この本の趣旨からはある意味ずれるのだが、「生きるための心理的抑圧」とでも言うべき問題が、佐々木の心をとらえた。
つまり、無意識下に抑圧しておくことでかろうじて自分の精神を正常に保てるような、抑圧しておかなかったら精神的にまともに日常生活を送れなくなるような、そんな「異常な体験」の問題だ。
多くの元被収容者は、強制収容所での体験を語りたがらない。
《 強制収容所についての事実報告はすでにありあまるほど発表されている。したがって、事実については、ひとりの人間がほんとうにこういう経験をしたのだということを裏づけるためにだけふれることにして、ここでは、そうした経験を心理学の立場から解明してみようと思う。その意義は、強制収容所での生活をみずからの経験として知っている読者とそうではない読者にとってでは異なる。第一の読者グループにとっての意義は、彼らが身をもって経験したことがこんにちの科学で説き明かされることにあり、第二のグループにとっては、それが理解可能なものになる、ということだ。つまり部外者にも、他者である被収容者の経験を理解できるようにし、ひいてはほんの数パーセントの生き延びた元被収容者と、彼らの特異で、心理学的に見てまったく新しい人生観への理解を助けることが、ここでの眼目なのだ。なぜなら、これはなかなか理解されないからだ。当事者たちがよくこう言うのを耳にする。
「経験など語りたくない。収容所にいた人には説明するまでもないし、収容所にいたことのない人には、わかってもらかるように話すなど、とうてい無理だからだ。わたしたちがどんな気持ちでいたのかも、今どんな気持ちでいるのかも」》
なぜ戦争などの異常な体験をした人々は、自らの体験を語るのを拒むのか?
同じ体験をしていない者にとっては、これを理屈として理解することは容易でも、実感として納得することは困難だ。
もちろん直接の理由は「同じ体験をしていない」からだが、それだけではない。
自分自身にも、語ることを無意識に拒否している「異常な体験」がありながら、その「異常な体験」自体が自分の無意識下に抑圧されているため、「異常な体験」を語るのを自らに拒ませる機序も、対象化されないからだ。
自分のこととして理解できないことは、他人のこととしても理解できない。
『夜と霧』を読むと、異常な体験をした人々が自らの体験を語るのを拒む理由が、理屈としてだけでなく、実感としてわかるようになる。
それは、読者自身が、自らの異常な体験を無意識下に抑圧し語るのを拒んでいる機序を、対象化する契機にもなる。
当然、読者の周囲の人々が心の内に秘めている同じ機序を、対象化する契機にも。
それはなぜか?
一つには、『夜と霧』で語られている体験の異常さが、あまりにも突出しているから。
カール・マルクスが指摘しているように、物事の仕組みは、その物事がまだ発展しきっていない状態で見ても、正しくは理解できない。その物事が発展しきった状態で見てはじめて、物事の仕組みを正しく理解できる。そして、発展しきった状態を見て得られた理解は、まだ発展しきっていない状態を理解するために、大いに役立つ。
《ブルジョア社会は、もっとも発展した、しかももっとも多様な、生産の歴史的組織である。だからこの社会の諸関係を表現する諸カテゴリーは、この社会の仕組の理解は、同時にまた、すでに没落してしまったいっさいの社会形態の仕組と生産諸関係とを洞察することを可能にする、そして、こうした過去の社会形態の破片と諸要素とをもってブルジョア社会はきずかれているのであり、それらのうち、部分的にはなお克服されない遺物がこの社会でも余命をたもっているし、ただの前兆にすぎなかったものが完全な意義をもつものにまで発展している等々である。要するに、人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である。これに反して、低級な種類の動物にある、よる高級な動物への暗示が理解されうるのは、この高級なものそのものがすでに知られているばあいだけである。こうしてブルジョア経済は、古代やそのほかの経済への鍵を提供する。》(『経済学批判』所収「経済学批判序説」)
ナチスによる強制収容所での極めて異常な体験と、その体験の心理的影響を理解することは、それよりも異常度の低い、我々レベルの「異常な体験」とその心理的影響を理解するための、鍵になるのだ。
もう一つは、著者フランクルが自分の体験を極めて冷静に、学問的に分析して叙述しているから。
いくら異常な体験を語られても、「あんなひどいことがあった」、「こんなこともされた」、という語り方から、聴き手が自らの内面をえぐるような学びを得ることは難しい。
自らの体験を学問的に対象化することで人類の共有財産にしようとするフランクルの使命感には、ただ打たれる。
この本を読んで、「生きるための心理的抑圧」の問題が佐々木の心をとらえたのは、単に佐々木が個人的にそのような問題を抱えているからだけではない。
「クライアント会社のスタッフにインタビューして、クライアント会社の業務マニュアルを作成する」という、佐々木の仕事自体にも、この問題が関係してくるからだ。
恥部のない組織はない。
仕事のやり方に恥部を持たない職業人もいない。
業務マニュアルづくりのためのインタビューをしていると、ときどき、相手の体が微妙に固くなるのを感じることがある。
そういうとき、佐々木は基本的にそれ以上はその話を追わない。
正直言ってそのぶん、業務マニュアルはわかりにくいものになる。
しかし、そういう心理的抑圧は、個人が安定した日常生活を続けるためにも、組織が安定した日常業務を続けるためにも、必要なものだと佐々木は考えている。
「包帯を巻いてあげられないのなら、他人の傷に触れてはいけません」という名言を小説に引用していたのは、たしか三浦綾子だったっけ。
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