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「おい、夕日がすんげぇきれいだぞ!」
2009年01月18日 日曜日
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(池田香代子訳)に、酷寒と飢餓と重労働と暴力と伝染病で衰弱した人々が毎日のように死んでいく強制収容所にあって、美しい夕日を見るだけのために、仲間にせかされみんなで重い体を引きずり外に出たエピソードが紹介されている。
《 あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」》
極限的に悲惨な状況にあってなお、というか極限的に悲惨な状況にあるからこそ、人が自然の美しさに感動できるということに、心打たれるだけではない。
感動を仲間と共有することが、人間にとって、文字通り死ぬほど疲れ切った体を立ち上がらせるほど意味のあることなのだということに、心動かされる。
佐々木は自分が感じた感動を周囲に伝えなさ過ぎる。
伝えることをあきらめ過ぎる。
伝わらない人間に伝えると、せっかくの感動が穢されるとさえ思っている。
《打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ》
(石川啄木『一握の砂』)
あの強制収容所にあって、夕日がきれいだからとにかく出てこい! と仲間をせき立てた被収容者は偉い。
いや「偉い」というのは、たぶん違うのだろう。
本人にしてみれば、そうせずにはいられなかったからそうした、というだけのことなのだろう。
ただ『夜と霧』のあのエピソードを読むと、そうやって感動を共有しようとする人間はやっぱり社会にとってすごく必要だ、と思わずにはいられない。
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