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認識主体と認識対象の分化
2009年02月03日 火曜日
自分の背骨1本1本がかなりはっきりと意識できてきた、と感じられるとき、その背骨1本1本を意識している自分自身というものが、新しい自分自身になったように感じられる。
言い換えると、それまでは存在しなかった自分自身が新たに発生したように感じられる。
自分の背骨の1本1本を対象化できていなかったときの自分自身は、いわば、自分の背骨の中に埋没していた。
言い換えると、認識対象である背骨と、認識主体である自分自身が、未分化だった。
認識主体と認識対象は、両者未分化の状態から分化する形で、同時に発生するのだ。
認識対象が存在する前から、認識対象とは独立に認識主体が存在していて、その認識主体が認識対象を認識するわけではないのである。
では、認識主体と認識対象の分化は、常に認識の発展として捉えるべき現象なのだろうか。
そうではないだろう。
たとえば、自分の近くを歩いていた人が何かに躓いて転びそうになったのに気づくと、頭で考えるより先に、自分の体が勝手にその人に手を差し伸べようとする。
これは、自分の近くを歩いていた人と自分自身が、認識対象と認識主体という形で分化していないからだ。
このとき認識主体としての自分自身は、認識対象としての周囲の人々の中に、いわば埋没している。
だからこそ、他人の身に起きたことが自分の身に起きたことのように感じられて、自分の体が勝手に動くのだ。
このような認識のあり方は、たとえば建築学者が建物の倒壊実験をするときの認識のあり方とは、まったく違うはずだ。
このとき認識主体としての建築学者は、認識対象としての建物から完全に分化している。
このように認識主体と認識対象が完全に分化しているからこそ、科学的な認識が可能になるのであり、実践に役立つ認識が得られるのだ。
しかし、自分の近くを歩いていた人が転びそうになったのに、建築学者が建物の倒壊実験をするときのような認識でいるとすれば、それは実践的な認識としてはかなり問題があるだろう。
なんだかカントが読みたくなってきた。
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