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格調高く文章化された「人の道」の必要性
2009年02月06日 金曜日
吉田松陰の『講孟箚記』(上、下
)を読んで最も考えさせられたのは、「人の道」を格調高く文章化すること(あるいは格調高く文章化された「人の道」に学ぶこと)が、人間にとっていかに重要で、かつ人間の魂に求められることであるか、ということだった。
幕末維新期の指導者として知られる吉田松陰の主著が、なぜ中国の古典『孟子』の解説書なのか?
投獄されて、陰鬱自棄に陥っている囚人たちを見て吉田松陰が始めたことが、なぜ『孟子』の講義だったのか?
『講孟箚記』の本文を読むまで、佐々木にはいまひとつ納得がいかなかった。
『講孟箚記』を読んでわかったのは、あの種の教典が人生において果たす役割は、構造力学が土木工事において果たす役割に近い、ということだ。
飛んで越せる程度の小川に橋を架けるのに、構造力学など必要ない。
大雨が降るたびに流されて架け直すような橋をつくるのにも、構造力学は必要ない。
人がもって生まれた能力では絶対に越えられない大河、海峡に、いかなる大嵐が来ようとも流されない橋梁を築くためにこそ、構造力学は必要とされるのだ。
同様に、生涯平穏無事な人生を生きるのに、あの種の教典など必要ない。
困難に直面するたびに絶望することを自らに許す者にも、あの種の教典など必要ない。
艱難にも希望を失わず、乱世にあっても重要な判断を誤らないためにこそ、あの種の教典は必要とされるのだ。
吉田松陰も述べている。
《〔‥‥〕世には性質甚美(じんび)にして、言を慎しみ行ひを謹しみ、入りては孝、出でては弟、郷党これを愛し、朋友これを信じる、一箇の善人あり。此の様の人は別に学問を為さずとも済むべき様なれ共(ども)、生質の美にて能く是程の事を為せども、学問せず思辨(しべん)せざれば、何か天下の大乱、人倫の至変、忠孝の大関係あることに至りて、却(かえっ)て大(おおい)に謬戻(びゅうれい)を生ずることあり。是れ「著しからず」「察(あきら)かならず」の弊なり。故に学問・思辨は固より日用常行の為なれ共、日用常行は無学にても可なりに出来る者衆(おお)ければ、是を以て学問・思辨と罵るに足らず。必ずや大節・大義に明らかに、天下の大乱、人倫の至変に至りて謬戻なき如く、常々工夫すべし。是、学問・思辨の功に非ずんば、悪(いずくん)ぞ能く是に至らんや。〔‥‥〕》(講孟箚記巻の四中 第五章)
《世の中には、素質が非常にすぐれていて、言行をいい加減にせず、親には孝、長者にはよく仕え、村の人々からも愛され、友人からも信ぜられている善人があるもので、このような人物は、別段学問をしないでも、過ごしてゆけるようであるが、素質のよさによってこれだけのことはするものの学問も思索もしないために、天下の大乱、人倫の大変、忠孝上の大問題にぶつかると、大きな間違いを引き起こしてしまうことがある。これが孟子のいう「著(いちじる)しからず」、はっきり知っていない、「察(あきら)かならず」、道理に徹していないがための欠陥なのである。それ故に、学問や思索は、いうまでもなく平生の行動を誤らぬためのものであるが、平生の行動は、無学でも、ある程度はみごとにできるものが多いので、そのため、学問や思索を無用のものと罵るものがあるけれども、それは問題とするに足らぬ。われわれは、大節・大義、すなわち道義の実践と道義のあるところを明らかにし、天下の大乱や人倫の大変に至っても道を誤ることのないように、平生において研究しておかねばならない。そのためには、学問と思索との努力を重ねるのでなければ、とても、それを成し得られることではない。》(近藤啓吾訳)
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