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失敗と創造
2009年02月26日 木曜日
料理するとき、調味料を計量するということがほとんどない。
酒も醤油も酢も、小さじだの大さじだのカップだのと使うことなく、ビンから直接、適当に注ぐ。
塩も、目分量で振りかける。
それで味付けを失敗することは、ほぼない。
ただかぼちゃの煮つけだけは、なぜか年に1~2回のペースで味付けを失敗する。
かぼちゃの煮つけを作るのは簡単だ。
かぼちゃを一口よりやや大きいくらいのサイズに切る。
固いかぼちゃを包丁で切るのは、めんどうと言えばめんどうだが、これも身体能力のトレーニングだと思えば楽しい。
かぼちゃ切りの奥義は、高岡英夫先生が、Webサイト「究極の身体」のコンテンツ「『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか」の「“究極の身体”の水準で考える脱力」章で解説されている。
で、一口サイズに切ったかぼちゃをビタクラフト鍋に並べて、酒と醤油を“適当に”注ぎ、蓋をしてごく弱火で20分かけて煮詰めればできあがり。
ただこのかぼちゃの煮つけ、醤油の加減を間違えると、かぼちゃの甘味が引き立たない。
ちょっとでも醤油を入れ過ぎると、塩辛いだけの煮つけになってしまう。
その失敗はこれまで何度もやっていて、頭ではわかっているのだが、どういうわけかときどき最初に醤油をドボドホっと入れ過ぎてしまう。
その時点で鍋から調味料を捨てて、また酒と醤油を注ぎ直せばいいのだろうが、面倒くささともったいなさに流されてそのまま火にかけ、出来上がった煮つけの塩辛さに後悔、となる。
なぜ、同じ間違いを性懲りもなく犯してしまうのか?
不注意と言ってしまえばそれまでだ。
ただ、「こうやれば間違いない」というセオリーを、ときどきはあえて踏み外す試みがあるからこそ、それまで存在しなかったものが生まれてくるのではないか。
だから、一定の頻度で失敗をやらかす傾向は、創造のためにはむしろ必要とされるものなのではないだろうか。
塩気がきつ過ぎるかぼちゃを食べながら、そんなことを考えた。
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