ビー・ドキュメント代表 佐々木 一郎の公開日記

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思考の順序で書かない

2009年04月03日 金曜日

叙述の順序は、分析の順序とは逆にしたほうが、わかりやすくなることが多い。

つまり、他人に読ませる目的で文章を書くときは、自分の思考の出発点を、冒頭に持ってこないほうがいい。

今、頼まれてインタビュー記事を書いている。

インタビュイーの発言も、発言の順序とは逆にして書いたほうが、わかりやすくなることが多いような気がする。

カール・マルクスは『経済学批判序説』の「三、経済学の方法」で、次のように書いている。

《あるあたえられた国を経済的に考察するときには、われわれは、その国の人口、その人口の諸階級への、都市、農村、海洋への、さまざまな生産部門への配分、輸出と輸入、年々の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なものから、現実的前提からはじめること、したがってたとえば経済学では、社会的生産行為全体の基礎であり主体である人口からはじめることは、正しいことのようにみえる。しかしこれは、もっとたちいって考察すると、まちがい〔であること〕がわかる。人口は、たとえばそれをなりたたせている諸階級をのぞいてしまえば、ひとつの抽象である。これらの階級もまた、その基礎となっている諸要素、たとえば賃労働、資本等々を知らなければ、やはり内容のないひとつの言葉である。賃労働、資本等々は、交換、分業、価格等々を前提とする。たとえば資本は、賃労働がなければ、価値、貨幣、価格等々がなければ、なにものでもない。そこで、もしわたくしが入口からはじめるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそうたちいって規定することによって、わたくしは分析的にだんだんとより単純な概念にたっするであろう、つまりわたくしは、表象された具体的なものからますます希薄なabstracta〔一般的なもの〕にすすんでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうであろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたくしは、ふたたび人口に到達するであろう、しかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連をもつ豊富な総体としての人口である。第一の道は、経済学がその成立の過程で歴史的にとった道である。たとえば一七世紀の経済学者たちは、いつも生きた全体、つまり人口、国民、国家、いくつかの国家等々からはじめた、しかしかれらは、いつも、分析によって二、三の規定的な抽象的一般的諸関連、たとえば分業、貨幣、価値等々をみつけだすことにおわった。これらの個々の要因が多かれ少なかれ固定され抽象されるとすぐに、労働、分業、欲望、交換価値のような単純なものから、国家、諸国民間の交換、世界市場にまでのぼっていく経済学の諸体系がはじまった。このあとの方法は、あきらかに科学的に正しい方法である。具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、たとえそれが、実際の出発点であり、したがってまた直観と表象の出発点であるにしても。第一の道では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産にみちびかれる。そこでヘーゲルは、実在的なものを、自分を自分のうちに総括し、自分を自分のうちに深化し、かつ自分自身から動きだす思考の結果であるとする幻想におちいったのであるが、しかし抽象的なものから具体的なものへ上向する方法は、ただ、具体的なものを自分のものにするための、それを精神のうえで具体的なものとして再生産するための、思考にとっての仕方にすぎない。(『経済学批判』所収「経済学批判序説」)

 

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