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客観性ぐるい
2009年07月06日 月曜日
アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』(平野一郎、将積茂訳)は、彼の人種論、文化論、国家論、組織論などそれぞれ興味深かったが、特に宣伝論がおもしろかった。
ドイツ人は「客観性ぐるい」で宣伝が下手だ、という批判は、佐々木自身のこととして身につまされた。
《 〔‥‥〕宣伝はだれに向けるべきか? 学識あるインテリゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか?
宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである!》
《宣伝の課題は、個々人の学問的な形式ではなく、ある一定の事実、ある過程、必然性等に大衆の注意を促すことにある。そのために宣伝の意義は、まず大衆の視野にまでずらさねばならない。
〔‥‥〕もともと学問的経験のあるものや、教養を求め洞察をうけるために努力しているものの教化にあるのではないから、その作用はいつもより多く感情に向かい、いわゆる知性に対してはおおいに制限しなければならない。
宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。〔‥‥〕
宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。》
《 宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとすることは、誤りである。
大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてそこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行わなければならない。》
《 宣伝の課題は、たとえば種々の権利を考慮することではなく、まさに宣伝によって代表すべきものをもっぱら強調することにある。宣伝は〔‥‥〕絶えず自己に役立つものでなければならない。
戦争の責任について、ただドイツだけがこの破局の勃発に責任があるのではない、と論ずることは、この観点からすれば根本的に誤りであった。かえって実際には、ほんとうの経過はそうでなかったにしても、事実そうであったように、この責任をすべて敵に負わすことが正しかったであろう。》
《 大衆は外交官から成り立っているのではなく、また国法学者のみから成り立っているのでもなく、まったく純粋に理性的判断からでもなく、動揺して疑惑や不安に傾きがちな人類の子供から成り立っている。一度、自国の宣伝によって敵側の一まつの権利さえも認められるようになると、すでに自己の権利に疑惑をもたらす根拠を置いたことになる。大衆は相手の不正がどこで終り、自分の不正がどこからはじまっているか、その時判断する立場にはない。そういうばあいにかれらは不安になり、邪推したりする。特に相手が必ずしも同じように無意味なことをせず、何もかも責任をこちら側に負わせてくる場合がそうである。そこで団結して一元的に行われる敵の宣伝を、ついにわが民族が、しかも自国の宣伝より以上に信ずることは、はっきりしないだろうか? ドイツ人のようにもともと非常な客観性ぐるいになっている民族のばあいにはなおさらだ! というのは、ドイツ人のばあいは、自分の民族や国家のこのうえなき重荷や、そのうえ破滅の危険をおかしてまでも、敵に対してとにかく不正なことをしないように、すべてのものが努力するからである。》
(「第六章 戦時宣伝」)
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