日本語の文法
2009年07月11日 土曜日
マーケティングの教科書によく、「人間は快を求めるよりも不快を避ける」という法則が取り上げられる。
その法則の証明として、「単細胞生物であるアメーバさえそのような行動を取る」という事実が提示される。
快/不快の認識こそ、生物にとって最も根源的な認識であるに違いない。
アメーバたちの認識をあえて言葉で表現するなら、「快!」、「不快!」という感じだろうか。
現状の認識だけでなく行動の認識も含めて表現するなら、「快!(これを求めよう!)」、「不快!(これを避けよう!)」となるかもしれない。
アメーバたちにとっては、この二つが認識のすべてなのではないか。
これは、地球上に生命が誕生して間もない頃の単細胞生物の認識にしても、同じだったことだろう。
その後、生存上の必要から生物が進化するに伴い、生物の認識もより細かく、より体系的で、より高次元なものへと進化していったことだろう。
最初は、快/不快の原因(「何が」)と、快/不快の様態(「どのように」)が、徐々に識別されていくところから、認識の進化が進んだのではないだろうか。
さらに、ただ水中をただようだけだったクラゲ類の段階から、自ら水中を移動していく魚類の段階へと進化するに至り、「ここ」と「あそこ(ここではない特定の場所)」が識別され、場所の認識が生まれるに至ったに違いない。
さらに生物の進化のどこかの段階で、「今」と「いつか(今ではない特定の時)」が識別されるようになり、時間の認識が生まれたのだろう。
人類が登場し、認識が徐々に本能の統括から解放され、また集団内での認識の交流が行われるようになった結果、「自分の認識」と「相手の認識」が識別されるようになり、認識主体の認識も生まれた。
生物の認識は、おそらくこのような形で進化してきた。
言語は、このような過程を経て細分化・複雑化・体系化・高次元化してきた認識を、そのような細分性・複雑性・体系性・高次元性を有するものとして表現し得るように、発展してきたものだ。
日本語だろうが印欧語だろうが、この事情は変わらない。
ただ日本語と印欧語では、認識の細分性・複雑性・体系性・高次元性を表現する仕組みに、かなり大きな違いがある。
日本語の文法について理論的に説明するためには、高度化する認識の要求に対して、言語一般がどのような進化で応えてきたかという問題と、日本語がどのような進化で応えてきたかという問題の両方を、論理的に解明することが欠かせない。
印欧語の文法概念を機械的に日本語に当てはめても、まともな説明にはならないはずである。
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