「なにがなんだかわからない」ということも「なにがなんだかわからない」
2009年07月16日 木曜日
認識学者の海保静子は『育児の認識学―こどものアタマとココロのはたらきをみつめて』で、生まれたばかりの赤ん坊の認識を、(絵で表現することのの難しさを断ったうえで)次のような絵で表現している。

以下は海保による上の絵の説明。
《 〔‥‥〕図のなかには外界である産室にいるお医者さんと看護婦さんと赤ちゃんを産んだお母さんがいますが,この外界は赤ちゃんの認識=像のなかにははいっているとともにはいってはいません。なぜなら,赤ちゃんにとって産室の現象形態のすべてとその雰囲気が外界としてどっと押しよせているのですが,当の赤ちゃんにはそのすべてが「なにがなんだかわからない」ものに一挙に押しかぶせられた状態となっているからです。
ここで雰囲気が一挙に押しかぶさったとの表現を「オーバーな!」と思わないでいただきたく思います。胎内にしかいたことのない赤ちゃんにとっては,雰囲気そのものを伝えてくれる産室の空気は,みたことも聞いたことも味わったこともない,真の意味ではじめての体験なのであり,そのはじめての体験を,五感器官もまたはじめて体験するのですから。ここで赤ちゃんは五感器官をとおしてはじめて空気といわば面接したのですから。というより,面接させられたということなのですから。
これらの五感器官をとおしてはじめていわゆる面接させられた雰囲気なるものは,前にも述べたように外界である産室であり,そのなかにある器具であり,お母さんであり,お医者さんであり,看護婦さんであり,これらの人々と室内がかもしだすものなのです。
それだけに,当の赤ちゃんの五感器官は,すべてを単一性のすべてとして反映するしかできまん。ですから,赤ちゃんの脳細胞がこれまたはじめて描く認識=像は,まったくもって無茶苦茶というより以上の,でたらめという以上のなにがなんだかわかることが絶対不可能な「なにがなんだかわからない」ということも「なにがなんだかわからない」ところの像なのです。
それは有体には,像というより,濃霧がいわば荒れ狂っている状態といった,かたちをなすことがまったくないかたちであるといってよいと思います。これが,はじめて脳細胞が描くことのできる初体験であるところの認識=像なのです。
ですから,外界であるお医者さんや看護婦さんやお母さんはすべて対象が定かでない,ないし定まらない,というより定めるスベも知らないだけに,いわば濃霧に包まれたかたちそのままであり,お母さんの声も,お医者さんの声も,看護婦さんの声も,お母さんの体も,お医者さんの手も,看護婦さんの手も,すべて濃霧のまっただなかの出来事,状態であるととっていただくのが,正解に近い像=認識であるといってよいと思います。それゆえに,当の赤ちゃんの認識=像を描くには,このようにしか描くことができない! ということになるのです。》
“「なにがなんだかわからない」ということも「なにがなんだかわからない」”状態を出発点として個人の認識が発展するのだという海保の指摘は、人間の認識の発展を理論的に解明しなければならない立場の人々から、もっと真剣に受けとめられてよいと思う。
2009 SASAKI Ichiro. No Right Reserved.

