「うまい」と「すごい」
2009年08月01日 土曜日
日垣隆さんの古典読書会メーリングリストの課題で、太宰治の『人間失格』を読み返した。
太宰治には高校生の頃ハマり、新潮文庫から出ていた作品は当時すべて買いそろえ、繰り返し読みふけった。
太宰の最初の創作集である『晩年』、特にその中の「葉」、「逆行」、「ロマネスク」といった作品など、何十回読み返したか、わからないくらいだ。
そこまでハマった太宰治だが、この『人間失格』については、なぜか、読んだ記憶がほとんど残っていなかった。
少なくとも目を通したことは確かなのだが、「はしがき」と「第一の手記」の、あの有名な書き出しぐらいしか、覚えていなかった。
メジャーなものに食いつくのを潔しとしない、あまのじゃく精神のせいもあっただろう。
だが今回『人間失格』と『晩年』を読み比べてみて、やはり理由はそれだけではなかったと思った。
「人間失格」は、いちいち「うますぎる」のだ。
鉄棒にわざと失敗したのを「白痴に似た生徒」に見抜かれて動揺する場面にしても、明日から酒をやめられたらお嫁さんになってほしいと煙草屋の17、8歳の娘に酔っぱらって冗談で頼んで、翌日昼間から酒を飲んでその娘のところに行き、「あら、いやだ。酔った振りなんかして」とか言われる場面にしても。
作者にとって扱い慣れた素材を、テクニックだけで書いているように感じられるのだ。
『晩年』に、「道化の華」という短編が納められている。
「人間失格」でも取り上げられている、鎌倉の海での自殺未遂とその後の警察や親類や知人とのやりとりを扱った小説で、主人公の名前も同じ「大庭葉蔵」。
読み返してみて、やはり「人間失格」よりも「道化の華」のほうが、よほどすごい小説だと思った。
陳腐な表現だが、切ればページから血が吹き出るような生々しさを、「道化の華」には感じた。
「うまい」と「すごい」は違うんだと、改めて実感した。
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